kurashito~暮らしと

暮らしが幸せになるためのことを、日々追究しています。

「スモールコミュニティ」の先をつくる フィルターバブルから考える、スモールコミュニティの限界と可能性

最近、とても気になっているイベントがあります。head-frontier2015-1.peatix.com

フィルターバブルとは?

フィルターに囲まれた世界を意味する表現。イーライ・パリサー(Eli Pariser)が用いた語。検索エンジンの検索結果がユーザー個々の嗜好で変化するフィルター機能によって、一方的な見地に立った情報しか手に入らなくなることを例えたもの。検索エンジンの中に含まれるフィルター機能によって、その人の過去の検索履歴などから個人に最適化した情報が手に入りやすくなる。一方で、自分の知らないことや反対意見などが検索結果として生じにくくなるため、フィルターの強度によっては、ユーザーが操られてしまう懸念がある。

フィルターバブルとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

 

 つまり、

インターネットを誰もが中立公平で開かれていると思っている。

でも最近、その人に最適と思われるリンクを優先して紹介するような仕組み(フィルター)が発達して、その人の履歴や今までの心地よい範囲の情報ばかりが検索結果に現れるようになってきている。

すると、その人とは違う反対意見などがはじかれ、目に入らなくなってしまうので、限られて偏った情報しか得られなくなり、それがその人自身の考え方や信念を操ってしまうおそれがある、ということ。

検索エンジンFacebookなどのSNSに、そういう作用があるとかないとか、論争になったようです。イーライ・パリサーさんのTEDでのスピーチは、たくさん再生されているようです。

 

青豆ハウスや都電テーブルで、スモールコミュニティについて先進的かつ旬な方である青木純さんですが、

matome.naver.jp

 

心地よいスモールコミュニティの次、という話をされるのかもしれない。

都電テーブルを、都電の沿線にも、という話から分かるように、きっと青木さんは、人と人がどうやったらいきいき心地よく関わっていけるのか、そういうことをずっと考えていて、それはひとつの建物をシェアする、という規模におさまっているはずもなく、拡大することについて、どういうビジョンを持っているのか、すごく興味があります。

 

私は、フィルターバブルって、インターネットというひとつのメディアへの盲信を終えるための合図みたいなものかなと思います。

ユーザー的には無料みたいな感覚で、しかもテレビや新聞と違って公明正大で中立、なぜなら自分でアクションして検索したり投稿したりしているから。ユーザーの受け身度合いによっては、テレビとさほど変わりない。

インターネットなら統制されない!そう思いこむのは、インターネットの成熟期に差し掛かって、もう時代遅れかなと思います。

 

スモールコミュニティとフィルターバブルが並挙されるのは、やっぱり「ここちいい仲間内、発展性への疑問」という点においてかなと思います。

 

スモールコミュニティにとって、その意味でのバブルを破ろうというのには、「主体性を持って、多元的に所属すること」が一番効果がある、と個人的には感じています。

 

まず、「主体性」には、スモールコミュニティそれぞれを、のびしろ、余白を持って設計する事が効果的だと思います。今回このイベントに参加される、青豆ハウスや都電テーブル(↑)の青木さんの事業が、それをとても上手に利用していると感じたからです。

共同体の構成員の意識を高くする、というのは、とても大事で、でも、主体性についてコミュニティ側から働きかけられる事って、なかなか効果的なものって無いと思うんです。構成員自体がコミュニティを自ら今作ってる途中、という状況にすることが何より効果的かと。

そして、「多元的」には、よく言われるところの、ファースト・セカンド・サードプレイス、というものの延長でいいと思うのですが、個人それぞれがこういうふうに生きたい・なりたい、を軸に持っていて、そのために複数のスモールコミュニティに所属することで、過去の日本の血縁や地域に限定された強制的なコミュニティへのトラウマに拒否感を抱かずに済むと思うんです。つまり、家族や住んでいるところの共同体だけでなく、職場、ある分野についてのプロジェクト、あるモノに対して集まる人々との関わり、趣味、発想の生まれるカフェの客、などなど。それらが、インターネットの内側で完結せずに、あくまでインターネットをツールとして利用して、より効果を上げる。

そんな忙しいから無理!と思われるかもしれないけど、これって、今の世界の様々な問題を解決すると思うんです。

ひとりひとりが、言われるまでもなく主体的になって、自分たちでリスクを負いながら、様々な決定をする。

そして、ひとりひとりのゴールという軸があるから、その共同体は固定されず、アップデートされ続け、ときには消滅したり、入れ替わったり、合体したり、生きもののように成長する可能性を持っていると思います。

日本人には難しい、というのはもちろんわかりますが、もうそろそろこういう形の成熟をしていかないと、いろいろと解決不可能な事が増えてくるのではないかと思います。日本人が、昔の窮屈で強制的な共同体をやっと抜けだして、個々の拡散した社会になり、それがやはり何らかのつながりも求め始め、また、インターネットの成熟期にさしかかり、様々な問題が露呈している 、という今、一度、取り入れてみてはどうだろうかと。

余白をもったスモールコミュニティに、個人が多元的に所属する世界。

 

ざっくりですが、イベントのタイトルから感じたことを書いてみました。

また改めて、少しずつスポットライトをあてて、実例や引用とともに、書いてみようと思います。