kurashito~暮らしと

暮らしが幸せになるためのことを、日々追究しています。

本当にグルメなパン屋さんの、パン。90代のおばあちゃんへ、マリエン薬局のカモミールティー。【読書記録】磯崎新『気になるガウディ』。私にとって「旅」とは?

コーヒー

本当にグルメなパン屋さんの、パン。

今日はとってもいいお天気!
昨日は、雨でした。

ちょうど私の乗っている軽自動車が車検で、また1時間ほど街まで下りて、いつもの整備士さんのところへ、車を持っていってきました。

お気に入り整備士さんの話は、こちらから(↓)

代車(といっても整備士さんがさっきまで乗っていた車)を借りて、街の用事を済ませに。
なんか2週間に1回ぐらいは街まで下りてきている感じなのですが、なにかと用事があるものですね。

先日のお気に入りのチェコグリーティングカード、同じものをあと3枚買い足してきました!

早速今日、一枚送りました。
自分が大好きなカードを相手に送れるって、想像以上に幸せです♪

 

そして、ひとりのランチにちょうどいい、お気に入りのパン屋さんでお昼を食べました。
そのパン屋さんは、ほんとにグルメな方がやっていると思う!
だって、バゲット、リュスティック、プレッツェルなど、どれもほんとにおいしいハード系中心のお店なのですが、幅広く、懐かしいやわらかいパンなんかもおいていて、でもそのトッピングの素材がいいものを絶妙な具合で使っていて、毎回なるほど、と唸らせられるのです。

昨日おいしかったのは、太くて短い、本場仕込みな感じのフランクフルトがはさまっているパンでした。
ハードパンのお店なので、当然小さなバゲットみたいのにはさむだろうと思いきや、それをあえてやわらかいコッペパンみたいなのではさんであるのです!
しかもそのフランクの、ジューシーで深い味わいの、本格的なおいしさといったら!
普通にこんなにおいしいフランクは、食べたことないレベル。
おいしすぎて、写真を撮るのを忘れました・・・。

本格的でおいしいフランクを、短いのでお手頃価格で一人分のお手軽量に、さらにそのフランクを主役として味わってもらうために、あえてやわらかいパンでさりげなくやさしく包む。
ソースは、フランクの下に隠すようにちょっと添えてあり、多分タマネギだかの薬味も少し。ジューシーなフランクとのバランスが絶妙です!

うーん、納得!!!
ほんとに、グルメな方が作っているんだなぁと思います。

そういう意味のグルメでいつか行ってみたいのは、先日『味の形 迫川尚子インタビュー (ferment vol.01)』という本のレビューで紹介した、新宿ベルクです。

 『味の形』については、こちらから。(↓)

グルメって、高級食材でさえあればいい、というわけでもないと思います。
命あるその食材を、どう加工して、何と、それぞれどういう切り方やどういう状態で組み合わせることで、広がる宇宙の様な味の世界を作れるのか。

それを毎日ひたすらに続けている、そんなお店が世界にあふれたら、食べ物も自然も人も世界もみんな幸せなのにな、と、思います。
そういうお店には、お金を払って行きたいし、その宇宙に触れて、命と命が反応してふるえる喜びを感じたいし、そんな食材との接し方からもっともっと学びたいと思います。

 

 

90代のおばあちゃんへ、マリエン薬局のカモミールティー。

その後、夫の90代のおばあちゃんに、やっとハーブティーを届けてきました。
チャイムを押しても不在の様子。
日曜も夫と訪ねてみたときも不在で、ちょっとだけ心配になりながらも、合いカギでドアを開け、玄関に置かせてもらいました。

夕方、帰りついてから、おばあちゃんよりメールが。
なんと、「今日も一日中でかけていました」とのこと!
本当に、お元気!
また料理や食材やいろいろ気になって、電車に乗って、あちこちお出かけされてたんだと思います。

さっそく、カモミールティーも飲んでくださった様子。
「優しい花の香りと上品な味わいに、長生きして良かったと、幸せな思いで、一杯です」
と、メールをくださいました。

そう。おばあちゃんは90代にして、携帯からメールをくださるのです。
たまにはデコメールだったりして。
本当に、頭が下がります。
ずっとずっと好奇心を忘れない毎日、元気の秘訣なんだろうと思います。

 

おばあちゃんにプレゼントした、マリエン薬局のカモミールティーについては、こちらから(↓)

ドイツのメディカルクオリティの、有機栽培はもちろん、暦や月、関わるスタッフのメンタルの状態にまで気を配って作られる、すばらしいハーブティからは、ただの植物の物質的な栄養だけでなく、たくさんの命を受け取って、自分の命も潤すことができる気がします。

 

 

【読書記録】磯崎新『気になるガウディ』

読みたい本がたくさん控えているのですが、また一冊、読み終えました。
建築家、磯崎新(いそざきあらた)さんの、『気になるガウディ (とんぼの本)』です。

気になるガウディ (とんぼの本)

気になるガウディ (とんぼの本)

 

3~4年前、夫とバルセロナを訪れました。
が、その時私たちは、バルセロナを訪れた日本人なら誰もが足を運ぶであろう、ガウディのサグラダファミリアを見に行っていないのです。

その時は、イスタンブールからバスク地方への便利のいい経由地としてバルセロナをセレクトしていて、くつろげそうな少しいいホテルを予約して、全行程2週間の旅の中の、休養日を過ごしました。
カンプ・ノウFCバルセロナのサッカーの試合を見に行ったり、広いバスルームでたまった洗濯ものを洗ったり、ホテルの近所を散歩して、現地の小さなスーパーでイベリコ豚の生ハムやバゲット、ビールなんかを買いこんでホテルで乾杯したり、ゆったりと過ごしました。

といっても、実は、バルセロナに着いた時に夫がバゲージロストしたり(翌日届きましたが)、財布をすられたり、バスクへ発つ前夜、私がパエリアにあたって夜中にお医者さんに来てもらって死ぬ思いをしたり(苦笑)、ガウディどころじゃなかったといえば、そうでもありますが。

それで、ずっと思っていたんです。ガウディって、どんなだったんだろう?って。

 

この本の著者の磯崎新さんは、海外でも評価が高い、日本を代表する建築家です。
おもしろかったのは、磯崎さん、ガウディにたいして、愛憎入り混じる感情をお持ちなことです。

かつて僕は「ガウディが大嫌いだ」と発言した事さえあります。

磯崎新『気になるガウディ』扉ページより)

 夜のライトに照らされた、100年以上いまだ建設中の、サグラダファミリアの尖塔の写真が、表紙です。
ガウディの生い立ちや、代表的な建築物、その写真、地図、それに建築家の視点からの様々な解説、歴史的な文脈などが、薄い割にとても充実した本でした。

 

日本人は、CMになったこともあって、誰でも割と無条件に「ガウディ、好き♪」という傾向があるようです。

でも、そのうねうねとしたモチーフや、どこかキッチュなディテールだけでなく、建築家である磯崎さんから見えるガウディには、高い技術や意味があり、歴史的なコンテクストがあり。 

例えば、カタルーニャ地方の伝統的なレンガの工法、「カタルーニャ・ヴォールト」を利用しなければ、ガウディの曲線的な造形はできなかったと言われているそう。なんと薄いレンガを重ねて、うねうねした屋根をふいているんだそう!

カタルーニャ・ヴォールト(カタラン・ヴォールト)について、写真など詳しくはこちら(↓)
CONSTRUCCIONES TAPPEI


現代の技術ならなんとでも造形できそうですが、よく考えると、今ほどの設備も科学的な技術もない時代に、あんなフォルムを作るなんて、すごいことですね!

しかし、ガウディが生きている頃から死後に至っても、その評価は、スペインの内戦や独立派や独裁政権の歴史の波に翻弄されてきたんだそう。
ある時期は、カタルーニャアイデンティティとして担ぎあげられ、最後、路面電車にひかれて亡くなった時には、そのみすぼらしい老人がガウディだなんて、誰も気づかなかったそうで、死後の内戦では、ガウディが作った模型など多くのものが、破壊されてしまったんだそう。
それでいて、突如遠い日本でガウディブームがわきおこったりして。

一見、有機的で芸術的な美しさが売りのように見え、構造的に合理的とは思えないガウディの建造物は、実は、コンピュータがない時代に、アナログな手法で限りなく構造的に「合理的」な手法をとった技術だったという事実。
もちろんそこには、ルドルフ・シュタイナーから影響を受けたとされる、自然そのものから学ぶ秩序や法則、自然や宇宙の仕組み自体にたいする敬意もあって、その自然法則の再現でもあったのでしょうが。

 

ほぼガウディのシンボルとして、いまだ建築が進められている、有名なサグラダファミリアについても、磯崎さんの視点で、問題提起。

サグラダ・ファミリア - Wikipedia

ガウディはどの作品でも、最初に模型を作っておいて、建設しながら現場で職人に指示を出し、途中で修正していくという手法をとっていたそうです。だから最初の図面はあくまで仮であり、完成したものはずいぶん違っている。
なので、たとえ自身のおおもとの図面やスケッチや模型が残っていようとも、ガウディ本人が亡くなった今、ガウディの修正を加えずに作っていくそれは、本当にガウディの作品と言えるだろうか?
それよりも、主任建築士が代々代わって引き継いでいくような、バルセロナの街の公共物なのではないか?
それならそれで、まっとうにそういう風に扱うべきではないか?
そもそも、そういった根本的な議論がなされていないことへの危惧など。

ガウディは、うねうねのアート、だけでは、決してない、ということ。
それだけで判断されて、本質に見向きもせず腑に落ちられるのは、おかしいということ。

ガウディという建築家は、ある時代の中で与えられた技術を使いながら、その限界をなんとかして超えようと試みた人だった。

(磯崎新『気になるガウディ』p.15)

・・・結局、磯崎新さんが嫌いなのは、ガウディではなく、ガウディの建築としての本質を見ずに雰囲気で「好き」ということが、嫌いなのですね。
むしろ、ガウディの本質のすばらしさを誰より深く理解しているのは、ほかならぬ磯崎さんなのかもしれません。

 

では、日本でなぜガウディが好まれるのかについても、磯崎さんの見解が述べられており、

日本人に特有のガウディへの関心は、ともにオフ・センターであるいという共通理解を前提としたうえでの、自分たちにかけている過剰さへの憧れなのではないだろうか―。

(磯崎新『気になるガウディ』p.9)

つまり、当時の世界において、中心地マドリードに対して辺境、オフ・センターであるバルセロナと、中国に対して辺境である日本。
どちらもともに、中心地とは距離を置いて、独自のコンセプトを組み立てる自由があった。
日本は、禅などの、禁欲的なミニマリズムを手に入れ、一方バルセロナは、真逆の過剰主義だった、ということ。

その洞察も、すばらしいなと思いました。
ややもすると、日本は禅だからすばらしい、という一辺倒な解釈が多い中、それはオフ・センターの振れの片方であり、同軸上に過剰主義がある、というのは、私の中では新しい捉え方でした。

 

 

そんな流れから・・・。

 

私にとって「旅」とは?

この間、ラジオを聞いていたら、「あなたにとって、旅とはなんですか?」というテーマでした。

私にとって旅とは、

①「自分の体をそこに置いて、できるだけ多次元から感じること。」

~寒暖や湿度を感じ、空気を吸い、その土地から見える太陽の温度を感じながら、山を見、海を見、川を見、旧市街から新市街へ、立ち並ぶ家々を見、音を聞き、ただよってくる匂いをかぎ、その土地の食べ物を食べ、朝の街を歩き、夜の街に出て、そこに行き交う人々の在り様や暮らしを肌で感じ、その歴史的な背景を知り、思いをはせ、どういう人たちがどういう自然の中で、どういう暮らしを発展させ、どういう歴史があって今こうなっているのか、だからこういう文化で食べ物なのかということを、感じること。

さらに、それを持って帰ってくる。

②その食材や調理法や服装や映画などの直接的なものだけじゃなくて、現地に自分の身を置いて感じられたことで、日本の小さな町で暮らしている自分の世界の捉え方を、ぐらぐらに揺さぶられて、大きくして、持って帰ってくる。

 

すると、そんなに長旅でなくても、自分が認識している「世界」というものの概念が、旅をする前と同じ場所での暮らしの中でも、大きく変わるのです。
同じ日常に戻ってきても、それは、かつての日常ではなく、新しい世界。

そしてそれは、旅を終えてからもずっと、年月をかけて発酵し続けます。
私の中では、その一連すべてが、「旅」なのです。

 

あのバルセロナの冬のある日の、圧倒的な太陽の明るさ、色とりどりさ、あたたかさ。
街中にはためくカタルーニャ国旗や、民族的な息づかい。
それを感じてから、写真で青空の下のガウディの建築を見ると、そのフォルムや色遣いを感じることができ、納得もするし、同じ温暖な土地に住んでいながら、一応、禅の文化に振れた日本に属しているこの小さな町の古い街並みを見ると、また別の可能性の世界が広がっているような感じもして、いつもと同じはずの景色が、違って見えます。

自分が現地に体を置いて、多くの次元にわたって体感し、旅し、本質を探っていく。
または、誰かが、私の知らない未知の次元にわたって体感したガウディを、活字を追いながらその世界ごと飲み込むことで、旅し、また本質を探っていく。
その意味では、読書も私にとっては、旅に準ずるものです。

3~4年前の旅が、まだ、日常で発酵を続けています。